LOGINそれから一年が過ぎた四月の朝。二年生になった僕は、規則正しく揺れる電車の中で、いつものように彼女を盗み見ていた。
彼女はこの一年の間、ほぼ毎日のように、この車両に乗ってくる。どうやら学年が上がっても、それは変わらないようだ。 残念ながら、あの日のように彼女が僕の隣に座ることは希で、たいていは今のように少し離れた場所に立つか座るかしている。それでも、その横顔を眺めているだけで僕は幸せな気分になれるのだ。 列車が揺れると僕の身体が揺れ、それと同じように彼女の身体も揺れる。そんなささやかなことにさえ小さな喜びを感じていると、揺れに合わせて僕の肩に軽くもたれかかってきた人物が突然口を開いた。「なるほど上玉だね」
「うん……えっ!?」無意識に頷いてしまった後で、僕はぎょっとして真横を見た。
いつから乗っていたのか、そこに同じ学校の女子が座っている。 真っ先に目についたのは、その長い黒髪で、そいつはそれを首の後ろで左右に分けて、リボンで括って背中に垂らしていた。いわゆるツインテールの一種だろう。 ついでに顔を観察すれば、妙に澄んで見える大きな瞳が印象的で、美人と呼ぶよりも美少女という言葉のほうがしっくりくる。おまけにスタイルも良くて女子として非の打ち所がないように見えた。 僕が平凡な男であれば肩にもたれかかられた時点で鼻の下を伸ばしていただろう。 だけど僕は女に……「だ、誰だ、君は?」
内心の動揺を隠すこともできずに問いかけると、そいつは僕に向き直って不思議そうな顔をした。それに対して僕が怪訝な表情を浮かべると、そいつはさらに眉を寄せつつ、口を開く。
「冗談だと思いたいんだけど、もしかして本気で言ってる?」
「…………」言われてから、あらためて考えると、確かにどこかで見たような気がする。少なくとも相手はこちらを知っているようだ。
ならば、あまり考えたくはないけど、可能性としていちばんあり得るのは――「もしかして……クラスメイトさん……ですか?」
「そうだね。それも隣の席の」そいつの答えに僕は思わず顔を覆った。
なんてことだ。よりによって同じ学校の、それもクラスメイトの女子に僕のささやかな秘密を知られるなんて。 いや、まだ誤魔化せるか?「え、えーと、おはよう。奇遇だね。僕が見ていたのは、そこの広告だよ」
僕は車内の中吊り広告を指さしてみせた。そこに書かれた文字をクラスメイトさんが読みあげる。
「巨乳アイドルまさかのAVデビュー?」
「ぬあぁぁぁっ!?」僕のバカ! ちゃんと確認してから指させよ!
つーか、あんなエロい広告を電車の中に吊るな~~~っ! 泣きたい気分で頭を抱える。これじゃあ、ただの変態だ。「棒読みに救われたわね。誤魔化そうとしていたのが丸わかりだったから、今のはノーカンにしてあげるわ」
良かった。演技の才能がなくて本当に良かった。
……いや、喜んでもいられないけど。 おそるおそる向き直るとクラスメイトさんは、やはり彼女に視線を戻していた。「こんなところから、ぼーっと眺めてるところを見ると片想いだよね」
「…………」 「もしかして、一目惚れ?」僕は黙ってうなだれる。もう誤魔化せる気がしない。
絶望的だ。こんなことは男友達にも知られたくないけど、女子に知られるのは、なおさら致命的だ。 きっとこのことは、尾ひれ背びれのついた噂となり、今日の放課後を待たずして学校中に知れ渡ることだろう。 何しろ女ってのは、どいつもこいつもピーチクパーチクうるさい噂好きで、相手を思いやる心など微粒子レベルも持ち合わせていない。 同世代の男子のことなど、それこそ売れないお笑いタレント程度にしか思っていないのだ。 それでも、たとえ無理だとわかっていても口止めを試みないわけにはいかない。最悪、お金を渡してでも――などと卑屈なことを考えていると、クラスメイトさんはこちらを見向きもせずに囁くように言った。「こっち見ないで、口を閉じて」
「は?」反射的に隣に顔を向けようとするとスクールバッグを顔に押しつけられる。
「もがっ……」
口に入った。まったく美味しくない。マヌケな感想を思い浮かべる僕にクラスメイトさんは、やはり囁くような声で付け足してきた。
「
言われて僕はぎょっとして
「意中の彼女に仲のいい女が居るなんて勘違いをされたくはないでしょ。降りるときは少し
そいつの意外な気遣いに、僕は小さく返事をするのが精一杯だった。
◆ 誰も信じない、誰も頼らない、誰もアテにもしない。それが僕のモットーだ。 だけど、友達が居ないわけではないし、人づきあいが悪いと言われたこともない。 大人達からは真面目で落ち着いていると言われる僕だが、同世代の多くの男子生徒がそうであるように、教室では毎日のように仲間と集まり、つまらない話で盛り上がっている。 ごく普通の青少年だ。そう思われるように努力してきたし、実際に誰もが僕をそう思っていると考えていた。 だけど……。「前から変な人だとは思っていたけど、思っていた以上に変な偏屈だったわね」
駅の外で僕が小走りに追いつくと、クラスメイトさんはこちらを見もせずに、つまらなそうに言った。〝偏屈〟だけでも大概なのに〝変な偏屈〟とはひどい言われようだと思う。きっとドSなのだろう。
「クラスの女子に関心がないのは見ればわかったけど、まさか隣の席に座っているわたしのことさえ覚えてないなんて」
「覚えてるさ。少なくとも……教室では他の奴とは間違えない」 「それも怪しいものね。あなたなら、もしそこに違う女子が座ってても、違和感に気づきそうにないもの」ぐぅの根も出ないとはこのことだ。確かにその自信があった。他人の顔も名前もほとんど覚えることのない僕だ。それどころか一度覚えても、必要がなくなればキレイさっぱり忘れてしまう。
事実、中学のクラスメイトなんて、そのほとんどが忘却の彼方だ。それはもちろん教師も同じことで今はもう担任の名前すら判らない。 これは、あるときを境に身につけた僕の数少ない「顔がわからないぐらいだから、もちろんわたしの名前も覚えてないわよね」
「たまたま席が隣ってだけで僕らは親しいわけでもないだろ。そういう相手のことを、いちいち覚えたって意味はない。どうせ長くても3年程度のつき合いなんだ」 「えらくドライね」 「そういう君はクラス全員の顔と名前を覚えているのか?」 「ええ、フルネームはちょっと自信がないけどね。自信がないと言いながら、僕のことは、しっかりフルネームで記憶しているようだ。隣の席なのだから不思議ではないのだろう。僕のような特技を持たないのであれば。
「でもまあ、そんな偏屈な君でも、ちゃんと恋はしたわけだ」
「…………」僕は両肩を落として盛大に溜息を吐いた。さすがに、ここまで来るととぼけようもない。
「頼むから、このことは……」
「わかってる。誰にも言わないわ」彼女はあっさりと承諾してくれたが、どこまでアテになるかはわからない。しかし、人を信じないのがモットーとは言っても、ここはもう彼女が約束を守ることに期待するほかはなかった。
とりあえず印象がよくなるように愛想笑いでも浮かべて礼を言っておこう。「ありがとう、クラスメイトさん」
「なんだか信用してないって顔してるわね」 「あれ……?」愛想笑いが通用しない?
「わたしが人の恋路をダシにして笑い話に興じるような女に見えるの?」
「それはまあ……女子って、だいたいそういう生き物だし」 「なにそれ!? ひどい偏見!」また余計なことを口にしたようだ。これまで、どんなときでも、のらりくらりと摩擦を回避してきた僕らしくもない。
「十人十色って言葉を知らないの? 女でも男でも、人それぞれに個性は違うものでしょうが」
「それはそうだけど、君がどの色かなんて僕には判りようもないし……」噛みつきそうな勢いで顔を近づけてくるクラスメイトさんを両手で押しとどめるようにしながら、とりあえず適当に誤魔化そうと試みる。そんな僕を半眼で見据えながらクラスメイトさんはピシャリと言い放った。
「そういうのはね、一年も同じ教室に居れば、ある程度は察しがつくようになるものでしょ」
「そう言われてもクラスの女子なんて、そもそも見分けがつかないし」 「犬猫同然か!?」犬や猫の方が、まだしも見分けがつくとは、さすがに言わないほうがいいだろう。
「じゃあ聞くけど、仮にどうすればわたしの言葉を信じてくれるのかしらね?」
「それは……」そもそも信じないのがモットーなのだが、そんなことを言えばますます面倒なことになりかねない。ここは冷静に考えて、自分が安心できる状況について説明しよう。
「クラスメイトさんが、何か弱みを握らせてくれたなら安心できるかな」
「わ、わたしの弱みを握って、何をさせるつもりよ!?」ぎょっとした表情を浮かべ、自分を抱きしめるようにして後ずさるクラスメイトさん。
なんとなく変な気分になってくる。そうか、これが嗜虐心というものか――て、それじゃあ本気でヤバイ奴だ! いよいよおかしな奴として喧伝されないように、ちゃんと言い訳しておかなくては。「つ、つまりだね、クラスメイトさん。僕が言いたいのは、お互いに秘密を握り合えば、どちらも秘密を余所に漏らせなくなるから……」
「病気なの!? 心の病!? どこまで人間不信なのよ、あなたは!? 必要なのは精神科医!? いっそ脳外科医の方がいいかしら!?」ムチャクチャ言われている。
おかしいな。面倒を避けたはずなのに、ますます面倒になってきたぞ――と、そこでふと気づく。 ああ、そうか。もしかしなくても僕は――――もう何年もの間、女子とまともに接点を持ったことがないんだ。
だから、なんだか上手くペースを合わせられない。怒らせてしまうのも無理のないことだ。ひとり納得する僕をクラスメイトさんは半眼で睨みつけてくる。
「重ね重ね不思議に思うわ。あなたみたいな人が恋をするだなんて」
「したくてしたわけじゃないよ。恋なんてものは本人の都合なんかお構いなしに落ちるものなんだから」 「なるほど、それは説得力があるわね」ふむふむ――といった調子でクラスメイトさんは頷く。なんだか初めて納得させることに成功した気がする。
「とりあえず歩きながら話しましょ。遅刻しちゃうわ」
そう言って前を歩き始めるクラスメイトさん。口止めの手立てがない僕としては、もうこれ以上話をする必要もないのだが、そんなことを言ったら今度こそ噛みつかれかねない。
しかたなく後ろをついていくことにした。遅刻もしたくなかったし。 この茜川は地方都市とはいえ、中心地はそれなりに開けていて街並みは小ぎれいだ。駅から学校へと向かう道は商店街の脇をすり抜けるように延びていて道幅は広く、歩道には街路樹が植えられている。 その道を前後に並んで歩いているとクラスメイトさんが、前を向いたままで話しかけてきた。「いつからなの? 彼女のことが気になり始めたのは」
「入学式からだよ」 「つまり、まる一年間も片想いしてるのね」 「そうなるね」 「告白はしないの?」 「しないよ」即答すると、クラスメイトさんはふり返って不思議そうな顔をした。
「どうして? 他の男子に取られてもいいの?」
「僕は――」少しだけ迷ったものの、繰り返し詮索されても煩わしい。けっきょく話すことを選ぶ。
「僕は彼女の名前を知らない」
そんな基本的なところをまず知らない。
「彼女の住んでる場所を知らない」
かろうじて判っているのは乗り込んでくる駅名ぐらいだ。
「声を知らない。誕生日を知らない。血液型を知らない。家族構成を知らない。趣味を知らない。特技を知らない。好きな色を知らない。好きな花を知らない。好きな食べ物を知らない。好きな言葉を知らない。好きな音楽を知らない。恋人の有無を知らない。善人か悪人かさえ判らない」
適当に思いつくだけ並べた上で、一呼吸だけ置いて続けた。
「ようは何にも知らないんだよ。これで恋だなんて絶対におかしいだろ?」
「一目惚れってそういうものでしょ」 「君は誰かに恋をしたことはないのかい?」 「あるけど」 「そのとき、相手のことをどれくらい知っていた?」 「それはまあ、名前は知ってたし、実際に話したこともある相手だったけど……」 「そう、それだよ。僕は彼女とは話をしたこともない。そんな相手になんで惚れるんだ? これは絶対に変だ。まともなことじゃない」 「いや、少なくとも容姿は知ってるんだし、恋の始まり方としてはむしろオーソドックスじゃないかしら?」 「見た目で好きになるなんてバカげてる。そんな不実な気持ちでつきあい始めたところで、絶対に上手く行くはずがないさ」 「なんでそうネガティブに決めつけるの? つきあい始めて内面を知ることで、もっと彼女を好きになる可能性だってあるじゃない」 「あり得ないさ」 「どうして?」 「僕が人間そのものを嫌ってるからだよ」クラスメイトさんが黙り込んだことで、ようやく喋りすぎたことを自覚した。
どうかしている。 これまでこんなふうに誰かに自分の内面を吐露したことなんて一度もなかったのに。 目の前の女だって、まさかこんな言葉を聞かされるとは思ってもみなかっただろう。だけど、これで面倒になってほうっておいてくれるなら、むしろありがたいと思えた。 けれど、クラスメイトさんの沈黙はさほど長引かなかった。「でもさ、そうやって理屈をこねましても、やっぱりあなたは彼女が好きなんでしょ?」
「ああ、だから困っている。こんな感情は本能が生み出す錯覚だと気づいているのに、一年が過ぎても治まらないんだ」 「本当に困ってるのなら、どうして時間をずらすなり、乗る車両を変えたりしないのかしら?」 「それは……」 「理性は行動を抑制することはできても、感情そのものを消し去ったりはできないわ。君はきっと、なんでも頭で考えすぎてる。それはそれで君の長所でもあるんでしょうけど、時には感情に身を任せてあげないと、いつかどこかで破裂しちゃうわよ」それだけ言うとクラスメイトさんはやわらかい笑みを浮かべた。
僕は正直驚いていた。こんな鬱陶しい話に、ちゃんと言葉を返してきたことにだ。せいぜい無視するか、呆れてバカにするぐらいだと思っていたのに。 会話が途切れると、僕らはそのまま無言で歩きつづける。 駅から学校までは学校案内のパンフレットによれば五分。実際には十数分といったところだ。パンフを書いた奴はよほど足が長いんだろう……なんてどうでもいいことを考えていると、すぐに校門が見えてくる。 そのまま昇降口で上履きに履き替えて教室に入るまで、けっきょく僕らに会話はなかった。翌日の日曜日に、わざわざ茜川まで足を延ばしたのは、地元量販店の品揃えの悪さがいちばんの理由だったけど、心のどこかでは、やはり月子のことが気になっていた。 もちろん、いくら地元に住んでるとはいえ、そうそう街中でバッタリなんてことはないだろうが、こういうとき人はあまり論理的ではない行動を取るらしい。 あれから僕は花屋敷さんの言ったことを、ずっと考えていた。 話の流れからして、たぶんあの人は、ことさら僕という存在に拘ってはいない。むしろ月子のことが好きな男子なら誰でも良さそうな感じだった。 それはつまり、あまり考えたくはないけど月子は今、道ならぬ恋をしてしまっているのではないだろうか。 たとえばそれは……。「ふ、不倫……とか?」 声に出してつぶやいたあと、バカな思いを振り払うように僕は大きくかぶりを振った。「違う、あり得ない。彼女はそんなことをする娘じゃない!」 「いやいや、女ってのはわかんないわよ~」 「そんなこと――!」 いきなりの声に反射的に振り向くと、驚いたことに当の月子がそこに立っていた。見慣れた制服姿ではない。今は私服で白いブラウスにショートパンツを身につけ、肩にバッグをかけて白い帽子を被っている。 いかにも清楚な女子高生といったイメージだが、その脚のラインが美しくて、ついつい目が行きそうになる。これならば女に飢えた中年男性など一撃でKOできそうだ。 つい先日、僕の頭をのせてくれていたその脚を、見知らぬ男の手が撫で回す姿を想像して僕は青ざめた。「つ、月子……」 「奇遇ね、三日森くん。相変わらず、挙動が不審だけど、どうかしたの?」 「君は……君って娘は……」 きょとんとした顔でこっちを見てくる月子に、込み上げてくるやるせなさを抑えながら僕はキッパリと告げた。「不倫なんて、すぐにやめるんだ!」 「――――っ!?」 月子は面食らったように身をのけぞらせると、見る見るうちに真っ赤になった。「なっ、なっ――」 何か言おうとしているようだが、動転のあま
熱中症のあと、学校を2日休んだ。 頭痛はすぐに治まったが、ダメージがお腹のほうに来たのだ。おかげでこの2日ばかり、トイレを友として過ごすことになってしまった。 それでも3日目には復活して、僕は意気揚々と学校に向かった。ようやく朝の彼女に会うことができる。期待に胸を膨らませるとはこういうことなのだろう。今日はいいことがありそうな気がした。「死にそうな顔してるわよ」 月子は僕に会うなり言った。「そ、そうかな? 僕は元気だし、今日は天気だし、今日も僕らのクラスは殺気で満ちあふれているよ」 「活気でしょ、活気。殺気で満ちてるクラスってどんなのよ? 怖すぎるわ」 夏休みが近いせいか、ホームルーム前の教室はいつも以上に賑やかだ。僕のふたりの友人も、離れたところで、やたらと大騒ぎしている。 その光景を遮るように月子が僕の目の前に立つ。「彼女に何かあったの?」 「…………」 僕は目を逸らした。真顔で月子が追い打ちをかけてくる。「寝取られた?」 「だから、そんなことを、しかも教室で言うなよ~~~っ!」 思わず叫んだら、クラスのみんなが一斉にこっちを向いた。 ま、まずい。とりあえず僕は、なんでもないんだとアピールするために、笑顔でみんなに手を振ったが、こともあろうか月子がツッコミを入れてくる。「よけいに怪しいなぁ」 「誰のせいだ!」 僕が言うと、月子はフッと笑って窓枠に腕をのせつつ空を見上げた。「きっと誰も悪くなかったのよ。彼女もまた歪んだ社会の犠牲者だったんだわ」 「いやいや、そんな三文サスペンスみたいなノリで誤魔化されないぞ。だいたい自分のことを他人ごとみたいに語るのはどうかと思う」 ジト目で言うと月子はこちらに向き直って誤魔化すように笑う。「ごめんごめん。けど本当にそっちの話なの?」 「今は言いたくない」 さすがに人目があり過ぎるうえに、いろんなところから注目されている。「わかった、それじゃあ、また後でね」
「三日森くん。三日森くん、起きて。駅に着くよ」 身体を揺すられて僕は目を覚ます。 なんだか柔らかくて心地良いところに頭をのせているようで、できることならもう少し眠っていたかった――と考えたところで、僕はぎょっとして目を見開いた。 目の前に月子の顔がある。 もっと手前に膨らんだ二つの、いわゆる母性の象徴がある。 つまり、この体勢は紛うことなき、膝枕――だった。「うわぁぁぁっ、ごめんなさいっ」 慌てて飛び起きると僕は自分の膝に両手をのせてお行儀良く座り直す。 それを見て月子が笑った。「気にしないで。こんなときなんだし」 月子はスカートのしわを伸ばしながら立ち上がると、僕に右手を差し出してきた。 今日は何度も僕にふれてくれた白くて柔らかい手だ。それを取って立ち上がると、列車は程なくして目的の駅に到着する。 扉が開くと、むせかえるような外の熱気と夏のニオイが全身を包み込む。燦々と降り注ぐ陽光の下、駅の屋根が落とした影がホームの床に白と黒のコントラストをくっきりと浮かび上がらせていた。 セミの大合唱が鼓膜を揺らし、またもや頭がクラクラして足下がふらついてしまう。それを月子は当然のように支えてくれた。 彼女に介護されながら歩き始めると、僕は駅の階段を上ったり降りたりして、ようやく改札をくぐる。いつもは何気なくやってることが一苦労だ。「うぅ……格好悪い」 「また言ってる」 月子に笑われて僕は赤面した。いろんな意味でばつが悪い。誰にも頼らないなんて言っておきながら、僕は今日だけでどれほど月子の世話になったことか。 なんだか誤魔化したくなって僕は投げやりに挑発的なことを口にする。「ああ、ここに居るのが君じゃなくて彼女だったらなぁ」 こんな失礼なことを言われて月子はきっと怒るだろうと思っていたのだけど、まったくその様子もなく、ごく自然に言葉を返してきた。「それを実現するためには、まず告白しないとね」 あてが外れた僕は、やむを得ずそのまま話を続ける。「告白はしないよ
まだ僕が未来に夢と希望を抱き、真面目に頑張っていた頃のことだ。 その当時、僕の学年では女子の間で、いろんな色や形のリボンを集めることが、ささやかなブームになっていた。 もちろん僕のような男子にはまったく関係のない話で、事実その事件が起きるまで、僕は流行っていることさえ知らずに居た。 事件というのは、まあわりとよくある話で、ようするに盗難だ。彼女たちのリボンが体育の授業中に、まとめてなくなったのだ。もしかしたら犯人は、ちょっとしたイタズラのつもりだったのかもしれない。 その頃の僕は何かとみんなに頼りにされていたこともあって、女の子たちからリボンを取り戻してくれるよう頼まれた。 名探偵ではないので犯人が誰かなんて見当もつかなかったけど、それはまだ校内のどこかに隠されているものだと僕は考えた。 まだ下校時間ではなかったから、犯人が誰であれ、大量のリボンを隠し持つのは難しい。ならば、きっと学校のどこかに隠したはず――そう考えたのだ。 はたして、それは屋上へとつづく階段の踊り場に積み上げられていた使われていない机の中から、まとめて見つかった。 僕は喜んで、それを彼女たちに届けに行ったのだが、そのとき誰かが言ったのだ。「やっぱり、三日森が犯人だったぞ!」 なにを言われているのか、一瞬わからなかった。 でも、その瞬間、そこに集まっていた全員の目が冷たいものに変わっていたんだ。 一瞬の間を開けて次々に罵声を浴びせられ、僕にリボンを探すように頼んでいた女子たちまでもが僕を罵り始めた。 混乱しつつも、僕は説明した。 そもそもリボンが盗まれたその時間に僕は体育倉庫で先生の手伝いをしていたから、そんなことは不可能だってことを理路整然とみんなに話したんだ。 だけど話し終えたとき返ってきたのは誰かのげんこつだった。 あとはもうみんなが寄ってたかっての殴る蹴るだ。 もちろん小学生のリンチなんて、たかが知れているから、大怪我なんかはしなかった。 ただ、そのとき誰かが言ったんだ。「前から生意気だと思ってたんだよ」 ――てね。 そ
クラスメイトさんの名前は沢木南月子だった。 さすがにあんなことがあると意識してしまうので、教室に居るだけで自然と覚えてしまう。 懸念していた片想いの彼女の件は噂話になることもなく、その日はもちろんのこと、次の日からも平穏な毎日がつづいていた。 けっきょく月子が電車に乗ってきたのはあの日だけで、僕はホッとしていた。面白がって変なお節介を焼こうとしないかと心配だったのだ。 いや、あるいはこれは自惚れだろう。僕なんかの恋路が赤の他人にとって、そんな面白いはずもない。 噂にしたってそういうことかもしれない。面白みのない男が誰かに一目惚れをしたなんて話をしても、きっと誰も喜びはしないだろう。 とくに月子のように人生が充実しているであろう人間は。 月子はクラスの中でも一際目立つ存在だ。容姿端麗で勉強もできればスポーツもできる優等生。 とくに6月に開催された体育祭での活躍はめざましかった。参加した個人種目のすべてで一位を勝ち取っていたはずだ。はっきり言って僕よりも体力があるのではなかろうか。 子供の頃のかけっこでは誰にも負けなかった僕も、ここではそう目立つ存在でもない。とくに徒競走に関しては手は抜いていなかったが前の奴にぜんぜん追いつけなかった。 そういえばそのときだ。ひさしぶりに月子に話しかけられたのは。「残念だったわね。あいつ、陸上部だもんね。陸上部が徒競走に出るなんて反則だわ」 眉を寄せてそれだけ言うと、月子はそのまま立ち去った。ちなみに彼女が参加した種目のすべてに陸上部員が参加していたという事実を彼女は知っているのだろうか? ぼんやりと月子の背中を見送っていると、背後から唐突にヘッドロックをかけられて、聞き慣れたバカっぽい声が耳元で聞こえてきた。「おいっ、三日森! なんでお前が月子さんに声をかけられてんだよ!」 絡んできたのは僕がいつもつるんでいる友人の片割れ、滝沢弘樹だ。 ややガタイのいいお調子者で勉強はダメだが運動神経はいい。この体育祭でもかなりの活躍をしていたはずだ。ただし、不良ではないのだが、どことなく不良っぽく、目つきが悪いせいで女子にはモテない。 僕は暑苦しい腕を引きはがそうとしながら、滝沢に苦情を言う。「なんでって、クラスメイトなんだから、べつに不思議じゃないだろ? だ
それから一年が過ぎた四月の朝。二年生になった僕は、規則正しく揺れる電車の中で、いつものように彼女を盗み見ていた。 彼女はこの一年の間、ほぼ毎日のように、この車両に乗ってくる。どうやら学年が上がっても、それは変わらないようだ。 残念ながら、あの日のように彼女が僕の隣に座ることは希で、たいていは今のように少し離れた場所に立つか座るかしている。それでも、その横顔を眺めているだけで僕は幸せな気分になれるのだ。 列車が揺れると僕の身体が揺れ、それと同じように彼女の身体も揺れる。そんなささやかなことにさえ小さな喜びを感じていると、揺れに合わせて僕の肩に軽くもたれかかってきた人物が突然口を開いた。「なるほど上玉だね」 「うん……えっ!?」 無意識に頷いてしまった後で、僕はぎょっとして真横を見た。 いつから乗っていたのか、そこに同じ学校の女子が座っている。 真っ先に目についたのは、その長い黒髪で、そいつはそれを首の後ろで左右に分けて、リボンで括って背中に垂らしていた。いわゆるツインテールの一種だろう。 ついでに顔を観察すれば、妙に澄んで見える大きな瞳が印象的で、美人と呼ぶよりも美少女という言葉のほうがしっくりくる。おまけにスタイルも良くて女子として非の打ち所がないように見えた。 僕が平凡な男であれば肩にもたれかかられた時点で鼻の下を伸ばしていただろう。 だけど僕は女に……彼女以外の女に興味はない。 もっともそいつは僕なんかにはお構いなしに、口元に意味ありげな笑みを浮かべつつ、彼女のほうへと品定めでもするかのような視線を向けていた。「だ、誰だ、君は?」 内心の動揺を隠すこともできずに問いかけると、そいつは僕に向き直って不思議そうな顔をした。それに対して僕が怪訝な表情を浮かべると、そいつはさらに眉を寄せつつ、口を開く。「冗談だと思いたいんだけど、もしかして本気で言ってる?」 「…………」 言われてから、あらためて考えると、確かにどこかで見たような気がする。少なくとも相手はこちらを知っているようだ。 ならば、あまり考えたくはないけど、可能性としていちばんあり得るのは――「もしかして……クラスメイトさん……ですか?」 「そうだね。それも隣の席の」 そいつの答えに僕は思わず顔を覆った。 なんてことだ。よりによって