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第2話 始まりの朝

last update publish date: 2026-07-17 15:26:53

 それから一年が過ぎた四月の朝。二年生になった僕は、規則正しく揺れる電車の中で、いつものように彼女を盗み見ていた。

 彼女はこの一年の間、ほぼ毎日のように、この車両に乗ってくる。どうやら学年が上がっても、それは変わらないようだ。

 残念ながら、あの日のように彼女が僕の隣に座ることは希で、たいていは今のように少し離れた場所に立つか座るかしている。それでも、その横顔を眺めているだけで僕は幸せな気分になれるのだ。

 列車が揺れると僕の身体が揺れ、それと同じように彼女の身体も揺れる。そんなささやかなことにさえ小さな喜びを感じていると、揺れに合わせて僕の肩に軽くもたれかかってきた人物が突然口を開いた。

「なるほど上玉だね」

「うん……えっ!?」

 無意識に頷いてしまった後で、僕はぎょっとして真横を見た。

 いつから乗っていたのか、そこに同じ学校の女子が座っている。

 真っ先に目についたのは、その長い黒髪で、そいつはそれを首の後ろで左右に分けて、リボンで括って背中に垂らしていた。いわゆるツインテールの一種だろう。

 ついでに顔を観察すれば、妙に澄んで見える大きな瞳が印象的で、美人と呼ぶよりも美少女という言葉のほうがしっくりくる。おまけにスタイルも良くて女子として非の打ち所がないように見えた。

 僕が平凡な男であれば肩にもたれかかられた時点で鼻の下を伸ばしていただろう。

 だけど僕は女に……彼女・・以外の女に興味はない。

 もっともそいつは僕なんかにはお構いなしに、口元に意味ありげな笑みを浮かべつつ、彼女のほうへと品定めでもするかのような視線を向けていた。

「だ、誰だ、君は?」

 内心の動揺を隠すこともできずに問いかけると、そいつは僕に向き直って不思議そうな顔をした。それに対して僕が怪訝な表情を浮かべると、そいつはさらに眉を寄せつつ、口を開く。

「冗談だと思いたいんだけど、もしかして本気で言ってる?」

「…………」

 言われてから、あらためて考えると、確かにどこかで見たような気がする。少なくとも相手はこちらを知っているようだ。

 ならば、あまり考えたくはないけど、可能性としていちばんあり得るのは――

「もしかして……クラスメイトさん……ですか?」

「そうだね。それも隣の席の」

 そいつの答えに僕は思わず顔を覆った。

 なんてことだ。よりによって同じ学校の、それもクラスメイトの女子に僕のささやかな秘密を知られるなんて。

 いや、まだ誤魔化せるか?

「え、えーと、おはよう。奇遇だね。僕が見ていたのは、そこの広告だよ」

 僕は車内の中吊り広告を指さしてみせた。そこに書かれた文字をクラスメイトさんが読みあげる。

「巨乳アイドルまさかのAVデビュー?」

「ぬあぁぁぁっ!?」

 僕のバカ! ちゃんと確認してから指させよ!

 つーか、あんなエロい広告を電車の中に吊るな~~~っ!

 泣きたい気分で頭を抱える。これじゃあ、ただの変態だ。

「棒読みに救われたわね。誤魔化そうとしていたのが丸わかりだったから、今のはノーカンにしてあげるわ」

 良かった。演技の才能がなくて本当に良かった。

 ……いや、喜んでもいられないけど。

 おそるおそる向き直るとクラスメイトさんは、やはり彼女に視線を戻していた。

「こんなところから、ぼーっと眺めてるところを見ると片想いだよね」

「…………」

「もしかして、一目惚れ?」

 僕は黙ってうなだれる。もう誤魔化せる気がしない。

 絶望的だ。こんなことは男友達にも知られたくないけど、女子に知られるのは、なおさら致命的だ。

 きっとこのことは、尾ひれ背びれのついた噂となり、今日の放課後を待たずして学校中に知れ渡ることだろう。

 何しろ女ってのは、どいつもこいつもピーチクパーチクうるさい噂好きで、相手を思いやる心など微粒子レベルも持ち合わせていない。

 同世代の男子のことなど、それこそ売れないお笑いタレント程度にしか思っていないのだ。

 それでも、たとえ無理だとわかっていても口止めを試みないわけにはいかない。最悪、お金を渡してでも――などと卑屈なことを考えていると、クラスメイトさんはこちらを見向きもせずに囁くように言った。

「こっち見ないで、口を閉じて」

「は?」

 反射的に隣に顔を向けようとするとスクールバッグを顔に押しつけられる。

「もがっ……」

 口に入った。まったく美味しくない。マヌケな感想を思い浮かべる僕にクラスメイトさんは、やはり囁くような声で付け足してきた。

彼女・・がこっちを見てる」

 言われて僕はぎょっとして彼女・・のほうに視線を向けた。

 一瞬、目が合うと彼女・・はさりげなく、僕はややぎこちなく視線を逸らす。

「意中の彼女に仲のいい女が居るなんて勘違いをされたくはないでしょ。降りるときは少しを開けてからにしてね」

「あ、ああ」

 そいつの意外な気遣いに、僕は小さく返事をするのが精一杯だった。

 誰も信じない、誰も頼らない、誰もアテにもしない。それが僕のモットーだ。

 だけど、友達が居ないわけではないし、人づきあいが悪いと言われたこともない。

 大人達からは真面目で落ち着いていると言われる僕だが、同世代の多くの男子生徒がそうであるように、教室では毎日のように仲間と集まり、つまらない話で盛り上がっている。

 ごく普通の青少年だ。そう思われるように努力してきたし、実際に誰もが僕をそう思っていると考えていた。

 だけど……。

「前から変な人だとは思っていたけど、思っていた以上に変な偏屈だったわね」

 駅の外で僕が小走りに追いつくと、クラスメイトさんはこちらを見もせずに、つまらなそうに言った。〝偏屈〟だけでも大概なのに〝変な偏屈〟とはひどい言われようだと思う。きっとドSなのだろう。

「クラスの女子に関心がないのは見ればわかったけど、まさか隣の席に座っているわたしのことさえ覚えてないなんて」

「覚えてるさ。少なくとも……教室では他の奴とは間違えない」

「それも怪しいものね。あなたなら、もしそこに違う女子が座ってても、違和感に気づきそうにないもの」

 ぐぅの根も出ないとはこのことだ。確かにその自信があった。他人の顔も名前もほとんど覚えることのない僕だ。それどころか一度覚えても、必要がなくなればキレイさっぱり忘れてしまう。

 事実、中学のクラスメイトなんて、そのほとんどが忘却の彼方だ。それはもちろん教師も同じことで今はもう担任の名前すら判らない。

 これは、あるときを境に身につけた僕の数少ない特技・・のひとつだ。

「顔がわからないぐらいだから、もちろんわたしの名前も覚えてないわよね」

「たまたま席が隣ってだけで僕らは親しいわけでもないだろ。そういう相手のことを、いちいち覚えたって意味はない。どうせ長くても3年程度のつき合いなんだ」

「えらくドライね」

「そういう君はクラス全員の顔と名前を覚えているのか?」

「ええ、フルネームはちょっと自信がないけどね。三日森みかもり遙人《はると》くん」

 自信がないと言いながら、僕のことは、しっかりフルネームで記憶しているようだ。隣の席なのだから不思議ではないのだろう。僕のような特技を持たないのであれば。

「でもまあ、そんな偏屈な君でも、ちゃんと恋はしたわけだ」

「…………」

 僕は両肩を落として盛大に溜息を吐いた。さすがに、ここまで来るととぼけようもない。

「頼むから、このことは……」

「わかってる。誰にも言わないわ」

 彼女はあっさりと承諾してくれたが、どこまでアテになるかはわからない。しかし、人を信じないのがモットーとは言っても、ここはもう彼女が約束を守ることに期待するほかはなかった。

 とりあえず印象がよくなるように愛想笑いでも浮かべて礼を言っておこう。

「ありがとう、クラスメイトさん」

「なんだか信用してないって顔してるわね」

「あれ……?」

 愛想笑いが通用しない?

「わたしが人の恋路をダシにして笑い話に興じるような女に見えるの?」

「それはまあ……女子って、だいたいそういう生き物だし」

「なにそれ!? ひどい偏見!」

 また余計なことを口にしたようだ。これまで、どんなときでも、のらりくらりと摩擦を回避してきた僕らしくもない。

「十人十色って言葉を知らないの? 女でも男でも、人それぞれに個性は違うものでしょうが」

「それはそうだけど、君がどの色かなんて僕には判りようもないし……」

 噛みつきそうな勢いで顔を近づけてくるクラスメイトさんを両手で押しとどめるようにしながら、とりあえず適当に誤魔化そうと試みる。そんな僕を半眼で見据えながらクラスメイトさんはピシャリと言い放った。

「そういうのはね、一年も同じ教室に居れば、ある程度は察しがつくようになるものでしょ」

「そう言われてもクラスの女子なんて、そもそも見分けがつかないし」

「犬猫同然か!?」

 犬や猫の方が、まだしも見分けがつくとは、さすがに言わないほうがいいだろう。

「じゃあ聞くけど、仮にどうすればわたしの言葉を信じてくれるのかしらね?」

「それは……」

 そもそも信じないのがモットーなのだが、そんなことを言えばますます面倒なことになりかねない。ここは冷静に考えて、自分が安心できる状況について説明しよう。

「クラスメイトさんが、何か弱みを握らせてくれたなら安心できるかな」

「わ、わたしの弱みを握って、何をさせるつもりよ!?」

 ぎょっとした表情を浮かべ、自分を抱きしめるようにして後ずさるクラスメイトさん。

 なんとなく変な気分になってくる。そうか、これが嗜虐心というものか――て、それじゃあ本気でヤバイ奴だ!

 いよいよおかしな奴として喧伝されないように、ちゃんと言い訳しておかなくては。

「つ、つまりだね、クラスメイトさん。僕が言いたいのは、お互いに秘密を握り合えば、どちらも秘密を余所に漏らせなくなるから……」

「病気なの!? 心の病!? どこまで人間不信なのよ、あなたは!? 必要なのは精神科医!? いっそ脳外科医の方がいいかしら!?」

 ムチャクチャ言われている。

 おかしいな。面倒を避けたはずなのに、ますます面倒になってきたぞ――と、そこでふと気づく。

 ああ、そうか。もしかしなくても僕は――

 ――もう何年もの間、女子とまともに接点を持ったことがないんだ。

 だから、なんだか上手くペースを合わせられない。怒らせてしまうのも無理のないことだ。ひとり納得する僕をクラスメイトさんは半眼で睨みつけてくる。

「重ね重ね不思議に思うわ。あなたみたいな人が恋をするだなんて」

「したくてしたわけじゃないよ。恋なんてものは本人の都合なんかお構いなしに落ちるものなんだから」

「なるほど、それは説得力があるわね」

 ふむふむ――といった調子でクラスメイトさんは頷く。なんだか初めて納得させることに成功した気がする。

「とりあえず歩きながら話しましょ。遅刻しちゃうわ」

 そう言って前を歩き始めるクラスメイトさん。口止めの手立てがない僕としては、もうこれ以上話をする必要もないのだが、そんなことを言ったら今度こそ噛みつかれかねない。

 しかたなく後ろをついていくことにした。遅刻もしたくなかったし。

 この茜川は地方都市とはいえ、中心地はそれなりに開けていて街並みは小ぎれいだ。駅から学校へと向かう道は商店街の脇をすり抜けるように延びていて道幅は広く、歩道には街路樹が植えられている。

 その道を前後に並んで歩いているとクラスメイトさんが、前を向いたままで話しかけてきた。

「いつからなの? 彼女のことが気になり始めたのは」

「入学式からだよ」

「つまり、まる一年間も片想いしてるのね」

「そうなるね」

「告白はしないの?」

「しないよ」

 即答すると、クラスメイトさんはふり返って不思議そうな顔をした。

「どうして? 他の男子に取られてもいいの?」

「僕は――」

 少しだけ迷ったものの、繰り返し詮索されても煩わしい。けっきょく話すことを選ぶ。

「僕は彼女の名前を知らない」

 そんな基本的なところをまず知らない。

「彼女の住んでる場所を知らない」

 かろうじて判っているのは乗り込んでくる駅名ぐらいだ。

「声を知らない。誕生日を知らない。血液型を知らない。家族構成を知らない。趣味を知らない。特技を知らない。好きな色を知らない。好きな花を知らない。好きな食べ物を知らない。好きな言葉を知らない。好きな音楽を知らない。恋人の有無を知らない。善人か悪人かさえ判らない」

 適当に思いつくだけ並べた上で、一呼吸だけ置いて続けた。

「ようは何にも知らないんだよ。これで恋だなんて絶対におかしいだろ?」

「一目惚れってそういうものでしょ」

「君は誰かに恋をしたことはないのかい?」

「あるけど」

「そのとき、相手のことをどれくらい知っていた?」

「それはまあ、名前は知ってたし、実際に話したこともある相手だったけど……」

「そう、それだよ。僕は彼女とは話をしたこともない。そんな相手になんで惚れるんだ? これは絶対に変だ。まともなことじゃない」

「いや、少なくとも容姿は知ってるんだし、恋の始まり方としてはむしろオーソドックスじゃないかしら?」

「見た目で好きになるなんてバカげてる。そんな不実な気持ちでつきあい始めたところで、絶対に上手く行くはずがないさ」

「なんでそうネガティブに決めつけるの? つきあい始めて内面を知ることで、もっと彼女を好きになる可能性だってあるじゃない」

「あり得ないさ」

「どうして?」

「僕が人間そのものを嫌ってるからだよ」

 クラスメイトさんが黙り込んだことで、ようやく喋りすぎたことを自覚した。

 どうかしている。

 これまでこんなふうに誰かに自分の内面を吐露したことなんて一度もなかったのに。

 目の前の女だって、まさかこんな言葉を聞かされるとは思ってもみなかっただろう。だけど、これで面倒になってほうっておいてくれるなら、むしろありがたいと思えた。

 けれど、クラスメイトさんの沈黙はさほど長引かなかった。

「でもさ、そうやって理屈をこねましても、やっぱりあなたは彼女が好きなんでしょ?」

「ああ、だから困っている。こんな感情は本能が生み出す錯覚だと気づいているのに、一年が過ぎても治まらないんだ」

「本当に困ってるのなら、どうして時間をずらすなり、乗る車両を変えたりしないのかしら?」

「それは……」

「理性は行動を抑制することはできても、感情そのものを消し去ったりはできないわ。君はきっと、なんでも頭で考えすぎてる。それはそれで君の長所でもあるんでしょうけど、時には感情に身を任せてあげないと、いつかどこかで破裂しちゃうわよ」

 それだけ言うとクラスメイトさんはやわらかい笑みを浮かべた。

 僕は正直驚いていた。こんな鬱陶しい話に、ちゃんと言葉を返してきたことにだ。せいぜい無視するか、呆れてバカにするぐらいだと思っていたのに。

 会話が途切れると、僕らはそのまま無言で歩きつづける。

 駅から学校までは学校案内のパンフレットによれば五分。実際には十数分といったところだ。パンフを書いた奴はよほど足が長いんだろう……なんてどうでもいいことを考えていると、すぐに校門が見えてくる。

 そのまま昇降口で上履きに履き替えて教室に入るまで、けっきょく僕らに会話はなかった。

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